ジブンライフ

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議論の意味を勘違いしている人とは。議論は平行線でいい

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議論の意味とはなにかを考えたとき、結論を出し、意見を一致させるものだという人がいます。

しかし、議論の本当の意味とは「価値観の違いを知ること」にあるのではないでしょうか。

もちろん、結論を出さなければならない会議の場はありますが、それ以外の議論の場面でも議論の意味を勘違いしているために有意義な場を持てていないことがあるのです。

議論の意味を「結論を出し、意見を一致させる」と考えるとどのような問題が起こるか、そして議論の本当に意味について、堀江貴文氏の著書『本音で生きる 一秒も後悔しない強い生き方』などを引用しながら説明していきます。

意見が同じでないといけないという圧力

議論では結論を出さなければいけない

堀江氏は日本の議論の傾向について以下のように述べています。これは多くの人が感じているものではないでしょうか。

日本人の議論を避ける傾向、いや全員が同じ意見でなければならないという強迫観念はいったい何なのだろうか*1

世の中のあらゆるA案とB案には長所と短所があり、だからこそどちらが正しいか判断できないために議論が起こります。

それについて結論を出すのは簡単なことではないし、意見を一致させなければならないと考える必要はあるのでしょうか。

意見が違うと「嫌い」になる人たち

それなのに、「議論は一致しなければ意味がない」「意見が一致しない=相手のことを嫌いなんじゃないか」と思う人がいかに多いか。*2

意見を一致させることにこだわる人たちは、自分の意見と反対のものを述べる人たちに対してネガティブな感情を持つことがあります。

「自分に対して反対の意見を言う人は自分のことが嫌いなんだ」と考えたり、賛否両論ある意見を言う人に対して「こんなことを言うやつの性格は○○だ」と主張する人がいるのです。

意見が一致しないことを問題視することが一因となり、意見が違うだけなのに、議論から離れた「自分に対する感情」や「意見を言う人の人格」にまで踏み込むのではないでしょうか。

 
ぼくもそうですが、本当に信頼関係のある人とはどんなに意見が対立しても、お互いの関係には何の影響もないものです。

議論の意味を知らないことによる問題

意見が一致しないことに対してネガティブな感情を抱く人や空気が存在すると、当然意見が言いにくくなるでしょう。

組織をよりよくしていくための意見でも、反対の意見を言うだけで「運営をしている自分のことが嫌いなのか……」と考えるし、意見そのものも受け入れられないということもあります。

そのため、純粋に良い組織運営をしていくための意見は出にくくなるでしょう

また議論をしてよりよい案を採用するのではなく、力のある人の意見に追従したり、誰も傷つかない平凡な案に流れていき、効率的な組織運営をしていくことができません。

お互いの価値観をすり合わせる機会が失われるために、相手の考え方を知ることができなかったり、不満を抱えている人に気づかない可能性もあるでしょう。

逆にいえば、議論は価値観のすり合わせであり、反対意見を言う人を嫌わないという組織文化をつくることができれば、意見が言いやすくなり、組織は活性化するかもしれません。

お互いの価値観の違いを知ることが議論

ぐるりみち。』でも議論のあり方について触れられています。やはりその本質は意見を一致させることではなく、価値観の共有やすり合わせ、それを通じて自分の意見について考えることにあるのではないでしょうか。

「議論」とは、多様な価値観を共有する場所であり、相手の主張から自分の考えもしなかった気付きを得ることで、互いに刺激し合い、自身の意見を強固なものとして昇華させるものである。それが、僕の考える「議論」だ。

引用元:ネット上での議論は本当に「無意味」なの? - ぐるりみち。

 
以下の堀江氏の言葉にぼくは感銘を受けました。一致させることではなく、違うことがわかるだけで大きな意味があるのです。

「We agree to disagree」(僕達はわかり合えないことがわかり合えた)でよいのだ。「価値観や意見が違う」ことがわかることが大事なのだ*3

大学でよく行っている議論でも、反対意見を言う人に対してネガティブな感情を抱くことはありません。むしろ自分の主張を強くしていくためにそれらの反対意見を知ることは重要なことです。

それを知ることで事前に反論を想定した主張をしたり、反論に対してよりスムーズに回答できるようになります。

 
議論をすることの意味は結論を出し、意見を一致させることなのでしょうか。それ以上にお互いの価値観を知り、自分の意見を磨いたり、価値観や意見が違うこと自体を知ることこそが議論の意味だといえます

一方で、結論を求めようとするな、意見を一致させることはいけないと言っているわけではありません。

議論は正しい結論を探ることを目指すものの、それが絶対的に必要なものではなく、ほかに本質的な意味があるということなのです。

 
堀江氏のゼロイチ思考に関する記事でも述べましたが、世の中の事柄は簡単にどちらかだと断言することはできません。

たとえ意見が違っても嫌うことなく、気軽に「そういう考え方もあるのか」と気軽に受け入れられるほうが有意義なのかもしれません。

*1:堀江貴文(2015)『本音で生きる 一秒も後悔しない強い生き方』SB新書 p.31

*2:同上 p.33

*3:同上 p.34

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