頑張りたいのに頑張れない自分に伝えるべきこと
頑張れないということで悩んでいる人は、努力している人・頑張っている人と自分を比べることで落ち込むことが多い。
それらが正しいことだと思われている現代社会では、そうでない人は肩身が狭いだろう。
しかし、努力できないことは悪いことなのだろうか。頑張れない人に価値はないのだろうか。
努力できない、頑張れないという人に向けて、努力のあり方などについて述べていきたい。
- 1.努力できない、頑張れないことは問題ではない
- 2.努力と頑張りは苦しむことではない
- 3.努力のジレンマに陥らないようにする
- 4.周りを気にしなくてもいい理由
- 5.正しい努力の方法を知ろう
- 6.才能は関係あるけれど気にしても仕方がない
- 7.まとめ
1.努力できない、頑張れないことは問題ではない
1.1.努力と頑張りはできなければ「ダメ」なのか
そもそも努力できない、頑張れないことは「ダメ」なことなのだろうか。
日本では子供のことから努力は美徳であり、頑張れない人は社会的に失敗すると教えられてきた。
そのため、自分がそれをできない場合、プレッシャー感じたり、劣等感を得てしまうようになっている。
1.2.努力できない、頑張れないことを受け入れる
つまり「努力しなければ」「頑張らなければ」という気持ちの根底には、「努力しなければいけない」「頑張れないやつはダメだ」という考えがある。
豊かな人生を歩む方法はいくらでもあるのに、努力することや頑張ることが唯一の「正解」であるかのように考えてしまっているから、苦しくなってしまう。
頑張れないというだけで「自分はダメだ」と考えるのではなく、なにか原因があるのだろうと考えるべきである。
そのように受け入れることができれば、頑張れないことで悩むことはなくなるだろう。
2.努力と頑張りは苦しむことではない
2.1.頑張る=苦痛を伴うと考えている人たち
努力すること、頑張ることは必ず大変なことだと考えてしまってはいないだろうか。
そのうえで、頑張ることのできる人は、「辛いことを我慢して続けられるからすごい」と思ってはいないだろうか。
これらの考えは間違っている。
以下のような言動・行動をとる人もこうした考え方をしている。
- 上司などに苦痛を与えられるのを「そういうもの」と考えてしまう
- 辛いことから逃げる人のことを安易に「努力できない」「頑張れない」と馬鹿にする
私は本を読むのが好きで、月に10冊以上の本を読んでいる。
周囲から「たくさん本を読んでいてすごい。努力家だ」といわれることもある。
「本を読むのってしんどいのに、なんでこんなに読めるの?」と聞かれることもあるが、私にとって本を読むことは大変なことではない。
努力をすること、頑張ることは苦痛を伴うものだと考えている人たちは、常に自分を「しんどい」状況に追い込む。それが頑張ることだと勘違いしている。
しかし、周囲から努力家だと言われるような人の多くは、必ずしも常につらい思いをしているのではない。
就職活動で何の対策もなしにとにかく企業にエントリーしたり、意図もなく長時間の練習をしたりすることが苦痛なのは当たり前のことである。
それにも関わらず、努力=苦痛だと勘違いしてしまっているために、それを続けようとし途中で挫折する。
他の人をみて「みんな頑張っててすごい」と思うかもしれないが、その人はあなたと違って「苦痛を感じない努力」をしていることは多いだろう。
2.2.工夫や手抜きも努力である
努力すること、頑張ることは苦痛を伴うべきだと考えている人は、「工夫」や「手抜き」を否定してとにかく「苦痛のある努力」をすることがある。
例えば、就職活動で親のコネに頼るのではなく、自分の力で100社以上エントリーして内定を勝ち取るべきだと主張する人がいる。
確かに自分の力でやることは素晴らしいが、必ずしもそれだけが努力だとはいえない。
努力をすること、頑張るということは「最大限の成果が出るように力を尽くすこと」であり、絶対に「大変」「苦痛」を伴う必要はない。
親のコネに頼るということもまた、良い企業に就職するという目的においては「努力」であり「頑張り」であるといえる。
3.努力のジレンマに陥らないようにする
3.1.努力のジレンマとはなにか
- 「努力・頑張り」はしなければいけないもの
- それらは苦痛を伴うものである
- 辛いことを続けることは辛い
上記のような勘違いをしてしまっている人は「努力のジレンマ」に陥ってしまう。
頑張れないやつはダメな人だから、努力しなきゃいけない。だけど頑張ることは苦痛を伴うものだ。だからやりたくない。だけど努力はしなければいけない。
そう考えてしまう人が身動き取れなくなり「努力できない」「頑張れない」と悩んでしまうのではないだろうか。
それらはやらなければならないことでもないし、やるとしても必ずしも苦痛を伴うものではない。このことを意識していくべきだろう。
3.2.好きなことは頑張らなくてもできる
前述したように、本を読むのが好きだったそれは苦痛ではない。
しかし周囲からは「努力・頑張り」だとみなされる。
よく言われるように、「好きなことだったら自然と頑張れる」ものである。
努力は辛いものという固定概念から抜け出すことができれば、努力のジレンマにとらわれることもなくなる。
4.周りを気にしなくてもいい理由
4.1.周りを気にすると適切な頑張りができない
上記のことを実践して、周囲から見て「努力できない」「頑張れない」というレッテルを貼られることを怖がる必要はない。
あなたが「これで十分だ」「やる必要はない」と考えたものに対して、苦痛を感じるほどに努力をする意味があるだろうか?
周囲からどう思われるかではなく、自分自身がそれで十分だと思えるかが重要である。
周囲の目を気にしているうちは、「努力をしなければ」と思ってしまう。
むしろ、適切な努力をするためには、周囲の目を気にしないことのほうが大切である。
4.2.「苦痛のある努力・頑張り」は絶対必要という人は他人を攻撃する
あなたが苦痛のある努力・頑張りをやめると、それを批判する人が出てくるだろう。
しかし、そういう人は大抵大変な努力をし、苦痛を我慢しているが、たいして成果を出せていない。
それほど頑張っているようには見えないし、苦しくもなさそうなのに成果を出している人をみると、攻撃したくもなるだろう。
「親にお金があるからうまくいってる」「推薦で入学した人は努力を知らない」などと批判することに意味はない。
親のお金や推薦制度も存分に活用して最大の成果をあげることが努力だといえるのではないだろうか。
5.正しい努力の方法を知ろう
5.1.「意図的な練習」の存在を知る
これから頑張ろうとする人たちは、「意図的な練習」について知る必要がある。
練習の意図も理解せずに、ただ言われるがまま行動している場合は「意図のない練習」をしている。
しかし、成果をあげている人たちは、意図的な練習を行っている。
ふつうの人びととちがって、エキスパートたちは、ただ何千時間もの練習を積み重ねているだけでなく、エリクソンのいう「意図的な練習」(deliberate practice)を行っている。
アンジェラ・ダックワース(2016)『やり抜く力』ダイヤモンド社(p.169)
5.2.「意図的な練習」のやり方
それでは、意図的な練習はどのようにして実践するのか。ここでは、大幅に単純化して説明する。
しかし、簡単にでも意図的な練習について知ることで、頑張れないと思ってしまう努力のやり方とは、全く異なることがわかるだろう。
意図的な練習では、下記のようなステップで練習を進める。
- 高めの目標を設定する
- 努力を惜しまずに、目標の達成を目指す
- 改善点が見つかったら、うまくできるまで繰り返す
多くの人は努力をしようとするときに、目標の設定をしない。また、目標を設定したつもりでも、それが本当の意味での目標になっていないこともある。
少なくとも、目標は定量的で図れるものでなければいけないし、期限が明確に決まっていなければいけない(詳しく知りたい方はSMARTの法則を参照)。
また、努力をひたすらに続けているのもいけない。常に自分のやっていることを主観的・客観的に見つめ直して、改善を繰り返し行わなければいけない。
ここで何も考えずにただ続けるということだけをやっていると、頑張れない・辛い努力になってしまうのだ。
5.3.「意図的な練習」もラクではない
もちろん、こうした意図的な練習は「ラク」なわけではない。
しかし、なんの成果も出ないのに、ただ辛い行動を続けることとは異なるということは、下記のインタビューからもわかる。
競泳選手のローディ・ゲインズが、こんな話をしてくれた。(中略)
「練習に行くのを楽しいと思ったことは一度もないし、練習中はもちろん楽しくなかった。(中略)」
「ではなぜやめなかったんですか?」(中略)
「水泳が大好きだったから。競争は胸が躍るし、トレーニングの成果が表われたときも、調子がいいときも、レースで勝ったときも、最高の気分になる。遠征も好きだし、仲間たちにも会える。だから練習は嫌いだったけど、やっぱり水泳は大好きだったんです」アンジェラ・ダックワース(2016)『やり抜く力』ダイヤモンド社(p.187-188)
また、意図的な練習そのものについても、ポジティブな感情を抱いているという記載もある。
「意図的な練習」は長い目で見た場合だけでなく、練習を行っているその瞬間にも、きわめてポジティブな経験になり得る、といいう意見の人もいた。その人たちも、「意図的な練習」について「楽しい」という表現は使わなかったが、「つらい」という表現も使わなかった
アンジェラ・ダックワース(2016)『やり抜く力』ダイヤモンド社(p.190)
。
6.才能は関係あるけれど気にしても仕方がない
6.1.やり抜く力が成果を左右するのか
何度か引用しているペンシルバニア大学教授のアンジェラ・ダックワース氏は、GRIDという概念を提唱している。
GRIDとは「人生で何を成し遂げられるかは、『生まれ持った才能』よりも、『情熱』と『粘り強さ』によって決まる可能性が高い」*1という主張のもと、情熱や粘り強さを指す概念として提唱されている。
この考え方に基づけば、生まれつきの環境や才能よりも、努力のほうが重要だということになる。
頑張りたいのに頑張れないと考える人たちにとって、希望に満ち溢れた主張のように思える。しかし、これは本当だろうか。
現在の研究では、その主張を疑う内容も多い。
6.2.才能や遺伝の影響はある
一方で、学力や知能について、遺伝の影響が大きいという主張もある。
ダックワースやヘックマンの主張に救いを見いだされた方が少なくないであろうところ、まことに恐縮なのですが、双生児法の研究からは、グリットも自己制御能力も勤勉性もほぼ同じ形質で、ほかの性格一般同様に、その個人差は遺伝と非共有環境からなっているという結果が得られています。つまり、環境が形質に与える影響はあくまでも一時的であり、長期的な持続性は遺伝の影響の寄与が大きいと考えられるのです。
安藤寿康(2016)『日本人の9割が知らない遺伝の真実』SB新書(Kindleの位置No.1464)
GRIDのような概念が有名になる一方で、こうした遺伝の影響が広く知られないのは、話題としてのキレイさがあるように思える。
遺伝の影響を認めてしまうと、社会で認められている人間も、認められていない人間もどこかで面白くない部分があるのだろう。
実際、身長や顔、体格など、努力などではどうにもできないものもあるのは事実だ。ではこの現実をどのように受けとめるべきだろうか。
6.3.変えられないものは気にしない、変わるものにだけ目を向ける
頑張りたいのに頑張れないというとき、努力に意味があるのか考えてしまうだろう。先程述べたように遺伝や才能といったものの影響は否定できない。
しかし、これまで紹介してきた研究の結果がどうであれ、間違いなく変わらない事実が1つだけある。
それは、変えられるものは変えられるし、変えられないものは変えられないということだ。
たとえ、生まれや遺伝・才能の影響が大きかったとしても、それはいまさらどうすることもできない。
であるならば、変えられるものに目を向けるべきである。
変えられるものというのは、自分の行動の内容、すなわち努力だといえる。
どんなに努力しても最終的な成果に結びつかないという残酷な結果になるかもしれないが、それでも変えられるものに注力することは前向きな人生であるといえないだろうか。
ビル・ゲイツのものとされる言葉に下記のようなものがある。
貧しく生まれるのは君のせいじゃないが、貧しく死ぬようなら君のせいだ。
科学的には才能が大切か、努力が大切かということについて、完全な結論はまだ出ていない。
しかし、よりよい人生を送るということについて考えるならば、どのようなスタンスでこの問題に向き合うかは明確なように思える。
7.まとめ
- 「必ずやらなければいけないこと」ではない
- 努力できない、頑張れないことで悩む必要はない。人間性の問題ではなく、別の問題がある
- これらは必ずしも苦痛を伴うものではない。苦痛のない努力もある。
- 工夫や手抜きもときとして努力だといえる
- がむしゃらな練習ではなく、「意図的な練習」を行うべきである
- 才能の影響が大きいか、努力の影響が大きいかは最終的な結論は出ていない(実際には双方とも大小はともかく、それなりに影響があるという結論に落ち着くと個人的には思う)
- 変えられないものに目を向けても仕方がない。変えられるものに目を向ける。
参考:努力しても報われない理由は才能ではなく「意図」がないから
*1:アンジェラ・ダックワース(2016)『やり抜く力』ダイヤモンド社(p.2